Story

ちいさな頃から目にした景色

実際に見たことはないけれど、祖母はお蚕を飼って機織りをしている人でした。
私の母も、洋裁和裁編み物なんでもやる人だったので、祖母と母から血を受け継いでいるのはものすごく感じています。

秋になると墨坂神社の曼珠沙華がとても綺麗で、赤はずっとわたしの好きな色です。高校まではピアノに没頭し、入学後は美大を目指していつも絵を描いていました。音楽や絵、ゆたかな自然。わたしの周りにはいつも彩が溢れていたのだと思います。

バイクやキャンプ、スキー。アウトドアは大好きで、自然の中に身を置く心地よさの中で生きてきました。

「伝統」への興味と
クリエイティブの世界

進学先は武蔵野美術大学工業工芸デザイン学科。
木、樹脂、石、金属、いろんな素材を扱う勉強をし、中でも心惹かれた染織の道へ。染める・織るという行為は、この時からぐっと身近になりました。

「世の中の形があるものは、みんな誰かが作っている」というのも、大学時代に学んだひとつです。クリエイティブの世界には、平面、立体、建築や絵画、いろんな分野があっていろんな人が横に繋がっています。
当時はパソコンなんてなかったから、デザインも切って貼っての世界。計算してコピーを取って、ポスターの字体も雑誌のページも地図もコピーして貼り付けて形にしていました。手仕事の世界にどっぷり浸かった学生時代、自分の中のイメージをを形にしたくて、まっしぐらだったのを覚えています。

彩をかたちにする、
テキスタイルとの出会い

テキスタイルの世界に出会ったのは、就職の時。今の仕事の原点です。
婦人服の生地を企画するテキスタイルメーカーに入社し、配属されたのはプリント課でした。顧客と市場のニーズをリアルタイムに分析し、企画を立てて生地に反映する仕事でした。企画を作るには、自分の中にストックが必要です。研究したのは素材とプリントを彩る柄。街や人を眺め、雑誌と向き合う時間が増えました。いろいろな生地の柄を考え、配色し、彩を形にする。今の作品作りにも通じるこの工程は、当時からの研究と柄作りの中で得意になったのだと思います。

様々なデザインに触れるうち、図案を書いているテキスタイルデザイナーの存在を知り、自分でも描きたくなったのが、独立のきっかけ。こうして1990年都会から田舎に移り住み、デザイン工房スプリングフィールドを立ち上げたのです。

リビングの片隅から、
全てが生まれる

独立してしばらくは、婦人服の柄やタオル・ネクタイの柄、本の装丁や挿絵など、なんでも手広く色を乗せて柄を描いていました。送られてくるイメージに合わせて想像して、描く。そのうちに手描きが減り、パソコンを使う人が増え、時代の変化に合わせて図案の仕事を減らしていった のです。

ちょうどプライベートで暮らしの変化も重なり、心機一転。
機織り機を手にしたのは、38歳の時でした。

大好きな素材。自分で一からやってみようという、なんとなくの空想。
40代から始めた機織りですが、ベースがあって上に色を重ねる作業は、絵画も織も服作りも一緒。わたしにとっては、タペストリーも服もバッグも、全て彩を形にする表現のひとつです。いつでも、その時のベストを尽くしてきました。

50になってもうひとつ、私の暮らしには水彩画が加わりました。今は機織りの仕事をしながら、たまに水彩画を描いています。もう一度、挑戦しようと思えたのも、色を通じて出会った様々な世界のおかげ。面白さ、鮮やかさ、平凡ではなく、ちょっと変わった奇抜なもの。着心地や動きやすさにも丁寧に目を向けて、纏うアートを生みだします。